徳丹城の歴史
 古代国家最大のプロジェクト『蝦夷征伐』

 7世紀中葉以降、古代国家最大のプロジェクトは、当時支配下になかった、蝦夷(えみし)と呼ばれる人々の住む東北・北陸地方を律令制と呼ばれる国家制度の中に組み込み、支配することでした。そのため、古代国家は、時に軍事力をもって北征する政策をとっていきました。これを世に言う「蝦夷征伐」といいます。この政策は、7世紀中葉から9世紀初頭までの約160年間、古代国家の威信をかけた最大のプロジェクトとして延々と続けられることとなります。

 古代国家は、北伐の末、制圧した地域を支配するための役所である城柵(じょうさく)と呼ばれる軍事上・行政上の拠点施設を、次々と造営して行きました。後ほど説明しますが、徳丹城は古代国家が造営した最後の城柵になります。

 古代国家の蝦夷征伐は、647年(大化3)に越国(現在の新潟県)に最初の城柵である渟足柵を造営したことに始まり、724年(神亀元)には、陸奥国の国府である多賀城が造営されます。その後も北上を続け、802年(延暦21)には胆沢城(現在の水沢市)が、続く803年(延暦22)には城柵としては最大規模の志波城(現在の盛岡市)が、征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって造営されました。

 徳政相論と蝦夷征伐の終焉

 しかし、約170年間莫大な国費と労力を注いだプロジェクトは、大きな転機を迎えることになります。805年(延暦24)に、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがののまみち)という2人の貴族によって、天下の徳政について議論がなされ、社会を疲弊させる原因となっていた造作(平安京造営)と軍事(蝦夷征伐)を停止するという、政策転換が行われました。その政策転換を受け、811年(弘仁2)に坂上田村麻呂の意思を受け継いだ文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)によって、幣伊(へい)・爾薩体(にさたい)の2村が平定されると、約170年間に及んだ蝦夷征伐は完遂せず、むしろ頓挫した形で終焉を迎えることになりました。

 志波城の水害と徳丹城の造営

 こんな折り、古代国家にはまさに寝耳の水の事件が起こります。811年(弘仁2)に志波城の中に取り込んでいた雫石川が氾濫し、移転を余儀なくされたのです。その後、812年(弘仁3)に征夷将軍となった文室綿麻呂によって、現在の地に志波城の代替として徳丹城が造られました。徳丹城が「律令国家最後の城柵」と呼ばれるのは、古代国家の大プロジェクトであった蝦夷征伐の停止という政策転換後に、志波城の水害というやむを得ない事情により造られた結果によるもので、その後城柵が造られていないからです。

 徳丹城はその造営に際し、他の城柵とは異なる特徴を持っていました。

 まず一つに、雫石川の氾濫という突発的な出来事の結果、緊急に城柵の移転を余儀なくされたため、徳丹城の造営と志波城の政務機能を代行する徳丹城の前身となる官衙施設が造られたことです。その機能的側面から便宜的に「先行官衙」と呼んでいます。

 そして、ほぼ同時期に造られた胆沢城・志波城がそれぞれ河川を城内に引き込んでいるのに対し、徳丹城は河川を引き込まず、約400mの運河によって北上川と接続していることです。これは、志波城が雫石川の氾濫とい災害に遭い、移転を余儀なくされた苦い経験を生かしたものだと考えられています。この運河を「推定運河跡」と呼んでいます。

 また、前述のとおり、非常に疲弊した時代背景の中での苦渋の移転であったため、徳丹城の柱の中には、志波城で使っていた柱のリサイクルが行なわれていました。志波城で抜き取られ解体された柱は、雫石川から北上川を通り、前述の「推定運河跡」を通じて徳丹城に運び込まれたと考えられています。

 その後、徳丹城の軍事的役割は徐々に低下し、考古学的には9世紀中葉(830~840年頃)に廃絶したと考えられています

古代城柵分布図
古代城柵の分布
名  称 創建年代
初見記事)
出  典
七世紀 渟足柵
(ぬたりのさく)
647年
(大化3)
日本書紀
磐舟柵
(いわふねのさく)
648年
(大化4)
日本書紀
八世紀前半 出羽柵
(でわのさく)
709年
(和銅2)
続日本紀
多賀柵
(たがのさく)
737年
(天平9)
続日本紀
牡鹿柵
(おじかのさく)
737年
(天平9)
続日本紀
新田柵
(にったのさく)
737年
(天平9)
続日本紀
色麻柵
(しかまのさく)
737年
(天平9)
続日本紀
玉造柵
(たまつくりのさく)
737年
(天平9)
続日本紀
八世紀後半 雄勝城
(おかちじょう)
758年
(天平宝字2)
続日本紀
桃生城
(ものおじょう)
760年
(天平宝字4)
続日本紀
阿支太城
(あきたじょう)
760年
(天平宝字4)
大日本古文書
伊治城
(いじじょう・これはりじょう)
767年
(神護景雲元)
続日本紀
多賀城
(たがじょう)
780年
(宝亀11)
続日本紀
秋田城
(あきたじょう)
780年
(宝亀11)
続日本紀
九世紀前半 胆沢城
(いさわじょう)
802年
(延暦21)
日本紀略
志波城
(しわじょう)
803年
(延暦22)
日本紀略
徳丹城
(とくたんじょう)
814年
(弘仁5)
日本紀略
 徳丹城跡の特徴
 立地環境

 徳丹城跡は、北上川右岸に形成された島状の低位段丘上に載っています。周囲には沖積地が発達しており、特に南東部では地盤が軟弱な湿地帯となっています。また、徳丹城跡の東側には、北上川に向かって三角形に突き出す先端的な地形を遺しており、その段丘下にはかつて北上川が増水した際、北上川の流れとは逆に北上する逆堰(ぎゃくぜき)と呼ばれた河川が入り込んでいました。この河川の流路跡は、近世の旧木の輪堰いう堰が重複していたため、徳丹城跡に接続していた「推定運河跡」の痕跡が破壊されていますが、その一部が現在も遺されています。

 構造

 徳丹城跡は、外郭と内郭( 政庁 )の2重構造からなっています。
 外郭の区画は、一辺約356m(約1,200尺)で、ほぼ正方形の形をしていますが、南東隅のみ隅切りの形を採っています。外郭線は、北辺全面と東辺・南辺の一部(地形的に高い段丘上)が築地であり、西辺全面と東辺・南辺の一部(地形的に低い湿地帯)は丸太材列という特異な構造を採っていました。外郭線の各辺にはそれぞれ八脚門と櫓が取り付き、内外を巡る溝も存在していました。

 一方、内郭の区画は、2004年(平成16)の第60次調査で、南辺の長さが76.332m、西辺の長さが76.762mの板塀で、2辺がつくる角度がほぼ90度であることから、正方形であることがわかりました。内には正殿(せいでん)と東・西脇殿(ひがし・にしわきでん)とよばれる3棟の建物が確認されています。

 
加えて、最近の発掘調査によって東外郭線に重複する形で徳丹城を造営するための『先行官衙』と考えられる一辺約150メートル四方の区画施設の存在が確認され、さらに徳丹城から東の段丘下では徳丹城の『推定運河跡』と思われる施設が発見されるなど、徳丹城をめぐる遺跡はさらに東側に広がる様相を見せています。

写真 写真
徳丹城全景(上空 東から) 徳丹城全景(上空 南から)
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